【動的瞑想】深夜にバットを振るという瞑想方法

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夜中にバットを振るのは素晴らしいことだ。


色々楽しいことはある。ゲームやら漫画やら旅行やら食事にいくのもいい。読書もいい。筋トレもいい。


それでも人間として生きるのだったら、魂の向上を第一に求めたいものだ。


色々遊んだりしてみても、一日中ネットやテレビをみて一日を終えたときは、なんだか気持ちが悪い。一日を無駄にした気分になる。同じ消費する遊びの中でも、自分のためになることをしたくなる。


しかし、そんなストイックになる必要もない。遊びの時間は本当に自分の好きなことをやったらいい。たとえそれが自分を成長させるものでもなく、ただの娯楽だとしても、ただどっぷり心から楽しいことに浸かる、そのことに意味がある。


自分の運命に挑戦する時間と、自分に甘い娯楽を与える時間をいい具合に分配できていれば、特に問題はない。わざわざ記事にするようなことではない。


ただ、しかし、だ。夜中にバットを振ることは何かが違うのだ。


瞑想に似たような感覚だ。バットをとにかく振る。俺は野球なんてやったことないから、バットの振り方は我流だ。自分の好きなように振っている。といってもデタラメに振っているわけではない。俺がこれまで培ってきた運動経験と照らし合わせて、運動の法則性というもの、道理というものから外れずにバットを振っているつもりだ。


思い切り振る。のびのび、大きく振る。どこにも力をいれない。バットが走り始めたら、そこに人間の余計な力や運動を加えない。バットの流れに沿うようにスイングする。


バットは主役でない。主役は体だ。体幹を動かすと、手足やバットは、その後に遅れてついてくる。よく体幹が大事だ大事だと、どんなスポーツでもよくいわれるが、その通りだ。人間の体は、体幹の運動がエネルギーを生み出す装置で、手足はその媒体に過ぎない。バットなどさらに末節だ。


バットを振るとき、バットが先に動くようじゃだめだ。最後の最後にバットが出る。先にバットを振り出してしまうのは、よっぽど運動が下手な人か女の子ぐらいなので、大体の人はこれはちゃんとできている。


とにかくバットを振っていて、どこにも力が入っていなくて、一から十まで、どこにも体の抵抗を感じることなく、自然に振りぬけることができることがある。これが気持ちいいのだ。何かが間違っていたり、引っかかっていたりすると、どこか不快感を感じる。注意深く体に正解かどうか、気持ちいいか気持ちよくないか、なにかひっかかる部分があるかないかを確認しながら、左右200回くらいスイングする。


大体1日に1時間ぐらいはやる。早く振ろうとすると、何か、すごい失敗をしたような気分になる。自分の意志のみで振りぬいたような、空間と一体化したような気分はない。そしてひどく疲れる。ゆっくり、自然な速度で振りぬくと、あまり疲れない。自分の意識が沈んで沈んで、夜の闇と紛れて真っ黒になって、なにもなくなって、頭の中に流れる活字も消失する。瞑想している気分になる。すごい貴重な時間を体験しているような気がしてくる。いつも忙しく動いてる時間が、凝縮して止まって、濃密で、全身に光を感じる。突き上げてくる生命の喜びを感じる。


別にバットの素振りではなく、どんなスポーツでもそういう実感は得られるだろう。なるべく外がいい。風を感じるのがいい。夜だともっと神秘性を感じられる。スポーツといっても、がむしゃらではだめだ。どんなものにも道理がある。自然の正しい運動法則に基づいて、体がその通り動くと、ああ、これだという実感が得られる。その実感を感じるのはいいことだ。夜に外に出て風を浴びながらやると、もっと実感できる。


テレビもゲームもいい、読書もいい、漫画もいい、だけど、自分の魂を浄化させるような娯楽は何かが違うのだ。別にバットを振らなくてもいい、ただ走るでもいい。ただ走るのも自分の体とひたすら会話をして、効率のいい走り方を求めなければならない。すぐ疲れてしまうようながちがちに力が入っていてはだめだ。これも体幹が重要で、手足の力を抜いて、体幹を前に推進させるような気持ちだけを残して、あとの手足は体幹の動きに遅れてついてくることが大事だ。身に着けるのではない。減らす。邪魔しているものをなくす。快適に走るために邪魔している手足の運動をなくすことが重要だ。運動だろうが何だろうが、多くの人は何かを付け加えようと練習するのでよくない。

 

色々なスポーツがあるが、振り抜く、振り回す、というのは特にいい。なんだか頭が真っ白になる。動的な瞑想だ。健康にもいい。精神的、肉体的にとにかくいい。金もかからない。あとは楽しめるかどうかだけだが、道理を踏まえれば必ず楽しめる。