考えていないときに人間は最高のパフォーマンスを発揮する。ボクシングと執筆を繋げて考えてみる。

考えないときに、人間といういきものは最高のパフォーマンスを発揮できる。


俺は趣味でボクシングと剣道とバットの素振りと壁打ちテニスをやっている。他にも出会い系アプリで女の子を食い荒らしたりするのも趣味なのだが、これらの趣味を繋げて一つの真理を見出した。


考えないこと。


ボクシングから考えてみよう。ボクシングでは、殴ろうとか避けようとか考えてはいけない。頭より遥かに早い速度で体というのは反応する。今なら殴れば届きそうだ、当たりそうだ、という判断は頭じゃなくて体の感覚が先行し、その感覚に頼って殴ってしまえば、当たる。そこに頭による論理的な役割、左脳的な動きが加わると、非常に遅くなる。当たらなくなる。

頭で考えず、体の感覚に任せていると、ほんとうに勝手に体が全部なんとかしてくれる。他のスポーツでもそうだ。


ちなみにパンチを避ける時も、なにも考えないでただ立っていると、体が反射の反応をして避けてくれる。勝手に躱してくれる。これはとても楽で、気持ちがいい。避け続けていると、だんだん自分の意識が働くようになってくるので、その意識をがんばって殺すようにしていく。さっきの、なるたけ空っぽの状態に戻れるように専心して、空っぽの状態をニュートラルとして捉え、常にそこにあり続ける。すると、永遠に避け続けることができる。


よくいわれるのが、十分に反復練習して技術を体に覚えさせれば、勝手に体が動くようになるというやつだ。それは概ね当たってる。


だが、俺は、学習せずとも、もともと人間の体にはすべてが備わっているんじゃないかと思っている。


また、パンチを打つというと、いかに腰をひねったり回転させてパワーを与えようとか、加速させようとか、なにかを付け加えて破壊力を生み出そうとするが、これも違う。無駄を省くということ、マイナスへ、マイナスへいくのが大事だ。とにかく加えよう、つけ加えようという意識はダメなのだ。


練習というのは、身につけるのではなく無駄をはぶく。今、自分の正常な働きを邪魔しているものは何かを気づいて、取り除くことを練習という。


もともと人間の行動は完璧なのだ。体が発信する命令は完璧だ。自分の悪い頭が邪魔しているだけのことなのだ。この世のすべてがそう。


文章もきっとそうだろう。うまい文章を書こうとするんじゃない。なにかを付け加えようと装飾するのではない。文章を書く上でなにが自分の邪魔をしているかに気づいていくことが練習なのだと思っている。


スムーズに、呼吸するようにカタカタキーボードを永遠に打ち続けることができたら最上だろう。質のいい作品を大量に展開できる人間が歴史上に何人もいたこと。実際にその境地に達した人間がいたということ。これは我々にとって救いだ。人間にはそれが可能だということがわかる。同じ同じ精神状態になって文章を書いてみたいものだ。


加えるのではなく、減らす。阻害原因をすべて取り払って、書く。いちいち、文章が止まったり、書いていて楽しくなくなるということは、なにかが邪魔しているからに他ならない。一体なにが邪魔しているのか。文章を格好よくみせたいという矜持か。


書きたいテーマがはっきりしていると、割と書けてしまう。書く前から大体書くことは見えているときがある。そういうときはスイスイ書ける。槌やノミを持って、その頭にある文章をなるべく正確に綺麗に取り出してあげる感じがある。


それと同時になにもない真空の中を、ふわふわと浮かんで消える断片的な一文を、書き連ねて、一文を書くとまた新しい一文がやってきて、それを繰り返していくと、長文が完成されることもある。


どっちがいいのかよくわからないが、俺は後者の方が多い。


ぼーっとなにもない状態にしていると勝手に体がパンチを避けてくれるように、文章においても、たくさん頭をリセットしてニュートラルの精神状態に置いておくと、ちょうどピシャっと的確な言葉が生まれる瞬間がある。それを一文、一文、ひたすら繰り返していったら、いい文章になる。ここがボクシングと文章と根源的な部分での繋がりだろう。


少なからず応用できている自負はあるが、まだ、何かひっかかるものがある。