猫と愛と業

今日もコメダに行き、10時から14時まで、4時間ぶっ続けで執筆した。つい最近まで、2時間書き続けるのが限界だったので、成長できて嬉しく思う。


本当は、指先一本動かせなくなるまで働いて、後はもうベットに突っ伏して寝るしかないところまでやってみたい。やればいいだけなのに、ね。


終わりを迎えると、ぼーっとしてしまった。不思議な浮遊感に満ちて、コメダの周りを散歩したくなった。秋の午後の日光は気持ちよくて、周りにススキがいっぱい咲いていて、一本、猫にお土産に持って帰ることにした。休日の昼に、なかなかのキチガイ行為だ。


持ち帰ったススキを、猫の方へとチョコチョコ動かした。真面目になって観察している。本当に猫は、いつも真面目だ。


うちの猫の朝は、テンションが高い。誰よりも早起きで、廊下を駆け回り、でかい声で鳴いている。猫にもしっかり時間軸があり、いつも決まった時間に決まった行動をしている。


一日の動きを細かい単位で調べたわけではないが、大まかには把握している。大体は寝ているが、深く寝ていることもある、浅く眠っていることもある。それらは時間によって正確に分けられているようだ。よく動く時間も、ゆっくり動く時間も大体毎日同じだ。何時にここにいて、また何時になると、別のとこに移動してと、ほぼ同じリズムで決まっている。だから、家に帰ってくると、猫がどこにいるか大体分かる。


昔、猫についての作文を書いて、現代文の教師に褒められたことがある。内容はこんな感じだ。


「僕は静岡県に住んでいますが、静岡はもうすぐ大地震がきて津波で流されてしまうようです。問題は、今こうして僕が学校にいるとき地震が来たら、僕は机の下に隠れてなんとかなるかもしれませんが、うちにいる猫はどうなってしまうかです。猫は身体が柔らかいから、落ちてくるテレビやタンスを無事にかわせるでしょうか。上手い具合にすき間を見つけられたら、生き延びれるでしょうか。仮に生き延びることができたとしても、外でやっていけるのでしょうか。うちの猫は家の中でしか生活していないので、怖がって外に出たことはありません、野良猫としてやっていけるようには思えません。いっそ津波に呑まれて即死した方が幸せかもしれません、心配です」


余談だが、俺はある占い師に「悪い水の霊が憑いている。津波で死ぬことになるでしょう」と予言されたことがある。


この作文を書いて先生に褒められた。本当に優しい子だと感動された。それから先生の俺を見る目が変わり、下校のときに俺を見かけると、ニコニコいつも手を振ってくれた。ちなみに、高校二年生のときの話だ(笑)

 

 

それにしても、猫が死んでしまうのは悲しい。こんなにいつも元気でいるのに嘘のように死んでしまう。今こいつは6歳だから、あと長くても7、8年で死んでしまう。また死ぬのか、と思う。ちょうど、人生の半分、折り返し地点にいる。


これまでに、猫二匹、犬一匹を飼ってきた。全部死んだ。


今、その悲しさはどうだろう。たまに思い出して悲しくなるけど、大体忘れて過ごしている。生き物が永遠に生きることはどうだろう。この猫は、ずっと生きていてほしいと思う。でもずっと生きていたら不気味だろうか。俺は別に構わない。俺が死ぬ時に一緒に死ぬのがベストだ。

 

愛を感じるためには、その反対の感情がなければ成立しない。なぜ人間は、寂しい思いをしなければいけないのだろう。 ただ楽しいという気持ち、嬉しいという気持ちだけでいいはずなのに、どうして神は悲しい、寂しい、辛いという気持ちを作らなければならなかったのか。


それは、嬉しいやら、愛しいやら、そういう感情を体験するには、辛い、寂しいというマイナスの感情が必要なのだ。マイナスの感情がないと、プラスの感情に対して気づけない。嬉しい楽しい愛しいという感情だけしかなかったら、それに気づけないのだ。


全ては表裏一体なのだ。猫の愛しさを覚えるには、猫が去るときの寂しさを同時に知っていなければならない。それは、愛の業でもあるのだ!