職場の34歳女性と「自分からは絶対に話しかけない」という喧嘩を繰り広げた2ヶ月

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 話しかけるなという空気を出しているのにも関わらず平気で話しかけてくる人はいる。Rはとても気さくで誰からも親しまれ仕事が出来る女性だった。

 職場での俺は、話すことは仕事に関する事のみで、それ以外はほとんど話さないという態度を貫いていた。別に人間嫌いの冷たいオーラを出しているわけでもなく、ただ最低限のことしか口にしなかった。長い訓練によって、怒気を含むことなくただ静かにしている術を心得ていたので、そんなに悪い印象を与えなかったと思う。誰でも一言二言で会話を切り上げて長話を避けることはあるだろう。それが非常に多かっただけとも言える。

 Rはよく俺に話しかけてきた。彼女にとって仕事仲間と他愛ない話をすることは日常であって、その常識に俺を当てはめようとしていた。俺はいつも静かに颯爽と受け答えして、ごく最小限の一言、「はい」と「そうですね」しか言わなかった。仕事の話はしっかり話すが、世間話になるとすぐに会話を切り上げようとした。無視を決め込むのはやらなかった。さすがに悪いと思ったし、そんな度胸もなかった。

 一体なぜそんな凶行に出たのか? ただ単に楽だったからである。元々神経が太く心に波風が立たない方だから、四六時中その状態でいたかった。心を動かしながら仕事をするのは苦である。送迎もリハビリも接客も一定のテンションでやっていた。小脳による手続き記憶に全てを申し送りして任せていた。自分で機械のように仕事しているのが天井から見えていた。そう思いきや、ワゴンRに5人乗った状態で送迎から帰ってくるなど、誰もやらないミスをよくしていた。仕事ができないくせに偉そうに孤高を気取っていた。

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 昼食を食べず1人で休憩室に座っていると、必ずRは「しまるこくん、お昼は〜〜?」と話しかけてきた。「今日は食べません」と例の如く一言で片付けようとすると、「なんで食べないの〜〜?」と言ってきた。「食べると消化で疲れるので食べないようにしています」と答えた。このやりとりは何回もやっているのにも関わらず、「しまるこくん、お昼は〜〜?」と毎回昼休憩になると言われた。

 その度に俺は心の中で、

(だから言ったじゃねーか、昼食うと眠くなるから食わねーんだよ。俺が昼に何食おうが食わなかろうが勝手だろ? しかもちゃんとその理由は昨日も一昨日も言ったよな!? 何回目だよ!? せめて違う質問しやがれ……! お前のその動物の鳴き声みたいなちょっとした疑問を口に出すコミュニケーション術はこれまで功を奏してきて、みんなもお前もそれが正解だと認めているようだけど、俺にとっては無用だ。見ろ。周りは俺にあんまり話しかけないようにしてるだろ? 俺もみんなも喧嘩してるわけじゃない。俺の孤独が板についてるから放っておくんだ。スティーブ・ジョブズの昼もそんな感じだろう。必要な時は必要なことを話す人だからいい、しまるこはそう望んでいるからそうしよう、と考えてくれているんだ。お前もそうしろ)

 そんなことを心で考えながら、「今日は食べません」と返した。

 しかしそんなことばかり続けているとRもいい加減腹が立ってくるらしい。

(いつも私から話しかけて、私ばかりおどおどして気を揉んで大変な思いをしている……! この人は楽ばかりしている。私だったら孤独は耐えられないけどこの人は耐えられる。もし私が同じことをしたら不憫に映るけど、この人はなぜかそうならない。男だから……? 自由に息を吐いている。だけど、そんな態度は社会人としてどうなの? いい大人のすることなの……? この人、私が話さなければ永遠に自分から話しかけてこないんじゃないの? 仕事中はもちろん、休憩中も話そうとしない。休日も会わないからもちろん話さない。じゃあいつ話すの? 私から話さないと永遠に会話は生まれない……! 仕事に関係ある話じゃないから、私と話せと強く言うわけにもいかない。言いたくもない。別にこんな奴どうだっていいけど、なんかむかつく。別に付き合ってるわけじゃないし、こんなヤツ本当にどうでもいいんだけど、私という存在を無視している。居ないものとして見ている。私が死んでもきっと泣かない。

 それとも、もしかしたら意識的に話しかけないように決め込んでいるのかしら? だとしたらキモい。なんで? 私なんかした? お昼食べたか尋ねることがそんなに悪いことなの……? この人は計算している。一定量以上無視を決め込んだり、受け答えの語数が少な過ぎると、それは攻撃と同じ意味になる。だからちょうど攻撃にならないギリギリのラインに調整して私とコミュニケーションを取っている。それは計算しなければできないことだ。この人は私と話すとき、この作戦で行くと決めている。私はそんな判断を下された悲しい女。Hさんと話すときはそんなことしないのに、私にはそういう態度を取るッ! 私がいい歳して独身だからバカにしてる……? お前も独身だろ……! 円周率を「3」で済ますような雑な手抜きをする。いつもギリギリのところで私は会話されている)

 俺はRがこういう風に考えていることはわかっていた。わかった以上はたった1度でも話しかけてやればよかった。それですぐに解決できた。普通の大人はこんなことにはならない。心に悪しきものが取り憑いている犬畜生だけが引き起こす。起こさなくていい問題を起こす。しかも気づいていながら起こす。

 別になんでもいい。「朝ですね」でもいい。自分から話しかけづらかったら、話しかけてもらったとき、「Rさんは昼食食うんですね」と、いつもと違う返しをするだけでいい。何かひとつ、たったひとつ、気を相手に向けてやればよかった。

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 おそらくだが、ほとんどの夫婦の間にこんな馬鹿げた戦いが行われている。子供も大人も喧嘩の行き着く先は「自分からは絶対に話しかけない」というヤツだ。

 当時、俺は30歳でRが34歳だったと思うから、社会を繁茂させていくべく立派な使命を帯びた年齢なのに、毎日こんなバカをやっていた。

「今日はこいつから話しかけてくるか」「明日はあいつから話しかけてくるか」「よし今日も話さずに済んだぞ!」と、スタンプラリーに印を押すような楽しみがあった。デイサービスの中でおじいちゃんおばあちゃん達が楽しくカラオケをしている中で、仲の悪い従業員2人の無言の歌声も天城越えしていたのだ。

 しかし、この戦いは俺にとって非常に有利だったと言わざるを得ない。俺は沈黙に強く、自分から話しかけないことは呼吸するより簡単だった。だから俺は何をするまでもなく、いつもRを怒らせることに成功した。Rはだんだん俺をにらみ付けてきたり、同僚の女に相談することもあった。

 白状すると、こんなことは別の女と100回以上やってきたから、Rに対してどんな表情をして、すれ違い時にどんな風に横切ればいいのか俺はなんでも知っていた。喧嘩しているのかしてないのか分からない程の、どこにも心を留めない俺の顔に対して、Rはどんな返す刀で斬っていいかわからなかった。

 俺は「勝った」とある種の満足感を感じていた。しかし同時に激しい罪悪感にも駆られていた。いや、それ以上に、一度出来上がった軌道を変化させるのはエネルギーが必要で、たった一言話しかけるのに多大なエネルギーが必要で、話しかけようと思っても話しかけられなくなっていた。自分の築き上げた謎の籠城から抜け出せなくなっていた。もともと怒りはないのに、喧嘩なんてしたくないのに、たった一人俺と話そうとしてくれた女性なのに、一体俺は何をしているんだろう? という気持ちでいっぱいになった。

 職場の先輩女性を傷つけて何をしたいんだろう? 一緒に働く仲間なのに、一緒に営利を追求していくのが会社なのに、社会人としても男としても失格だ。昨日も今日もあんな哀しそうな顔をさせて……、ああ、取り返しのつかない事態になってしまった。今からでも間に合うのに俺はなぜ今も何もしないんだ? こういうとき、どうすればいいんだっけ?

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 俺は多分結婚したらこうなるんじゃないかと思った。もし何かの拍子で夫婦喧嘩が始まって、お互い口を利かなくなったら、どちらかが必ず話しかけなければいけない。俺はその時自分から話しかけることができるだろうか? 今まで誰かと喧嘩したり関係が悪化したとき、自分で立て直したことがあっただろうか? 関係修復能力がまるでないまま大人になってしまった。俺はこのまま生きていくのか? 大切な人が俺の前から去ろうとするとき俺はただ指を咥えて見ているのか? 例え俺が超金持ちになったとしても、喧嘩の後は絶対に話しかけようとしないものなら、どの女もお断りだろう。女はいつの日か疑問に思って試してみたくなるだろう、自分からは謝らないで期間を置く実験をするのだ。きっと2ヶ月後に離婚届を書いて渡してくるだろう。

 なんて子供だろう? 何がヨガだ、悟りだ、真理だ、真理が聞いて呆れる。

(今回だけだ! 俺とRだからこうなってしまった! 相性が悪かった。頭の出来が違い過ぎるんだ。俺と結婚する娘は賢いから喧嘩にならないはず! そんな娘だったら喧嘩しても俺は自分から話しかけるはず……! すぐ仲直りできるはず……!)と、Rと顔を合わせて横切る瞬間、そんなことを考えていた。

 そうして俺とRは約2ヶ月ほど話さない時期が続いた。俺は記録が毎日更新される度に達成感と罪悪感を感じていた。

 人は皆、自分の神経質なところを見破られるのを恐れている。いつもからりと渇いた夏風のような人間を演じている。神経質だったり繊細な人間だと思われることは恥ずかしいことだ。なんにせよ「気にしてる」と思われるのは避けたい。だから背伸びして厚顔になろうとする。その方が健康的だ。職場で泣いたり喚いたりするくらいだったら100万円失う方がマシだ。俺は動揺でいっぱいになっている心をRに悟られることなく、この仕事を終わらせた。